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ちょっと前回から時間が経ってしまったが第五回「アイドルはマラドーナ」について書こうと思う。

小学校4年になりサッカークラブに入部した私はどんどんサッカーにのめりこむ。
特にリフティング(ボールつき)は大得意で友人と回数を競い合った。熱中するうちに学年で一番になった。
回数は「858回」。今でも忘れられない数字だ。
これが実戦で役に立つかというとそれほどでもない。ただ今思えばこれによって「集中力」がついたと思う。

そんな私が当時の「サッカーダイジェスト」を見て憧れた選手がいた。
そう「ディエゴ・マラドーナ」だった。

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サッカーファンならずともその名前は知っているスーパーファンタジスタだ。
当時のVTRでリフティングをしているシーンがあるがそのソフトなタッチや正確さは度肝を抜かれた。
いつだったろうかパチンコ玉でリフティングをしている映像を見て小学生ながらに唖然としたのを憶えている。

ひと言でいうなら「ケタ違い」というやつだ。

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人生で初めて「あこがれの人」というのを持つことになった。
マラドーナの真似をしながら練習に励んだ。
しかし、私に与えられたポジションは「右のデフェンダー」だった。これじゃ真似しようにも真似できない。

真似をしようものならボールを敵に奪われ石山先生(仮名)に怒鳴られるだけだ。

当然フラストレーションが溜まったが、与えられたポジションを精一杯こなすことに専念した。
ボールを追っかけてるだけでも本当に楽しかった。マラドーナへの憧れは少しづつフェードアウトしていく・・・

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さようならマラドーナ!

そんなサッカーに一生懸命の私を応援してくれる女の子が現われた。

次回第⑥回「生まれて初めての恋」  乞うご期待!
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2010.10.19 Tue l 私の履歴書 l コメント (1) トラックバック (0) l top
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さあここから本題に入ろうと思う。小学校に入学してから私はそこにいる普通の小学生と同じように、友達とたんぼのあぜ道を通ったり「けんけんぱ」などをしながら帰宅。その後近くの公園で「缶けり」や「おにごっこ」に熱中する毎日を過ごした。

今思えばあの頃はなにも考えずただひたすら近くの公園に通った。なぜなら高学年のおにいちゃんや同級生が皆、集まり一つのコミュニティを形成していたからだ。

とにかく公園へ行けば誰かがいた。知らない子がいてもすぐ仲良くなって町内中を舞台に鬼ごっこをした。
本当に楽しかった。宿題もまともにした憶えがない。

そんなどこにでもいる普通の小学生だった私が3年生になったくらいだろうか4年生以上のお兄ちゃん達が放課後やっているサッカークラブに興味を持つようになった。

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当時は野球がメインで放課後の子供の遊びといえば公園で野球が普通だった。当然野球クラブの方が圧倒的人気があり人数も多かった。しかし私は足でボールを蹴るサッカーの方が魅力的に思えた。

なぜならサッカークラブのコーチが(当時30代前半だったと思う)プレーする姿がすごく格好良く見えたからだ。
このコーチが後に私の人生に大きな影響を与えて下さった石山先生(仮名)だ。

友達同士で遊びでサッカーはしてたが大人のプレーを見たのは先生が初めてだったと思う。
先生は「サッカー王国」群馬県出身で素早い身のこなし、フェイント、体重の乗った思いシュート等、見たことのないプレーで当時小学3年生だった私の心を動かした。

どうしてもこの人にサッカーを習ってみたい!と思い私は石山先生にお願いしに行った。
しかし答えは「NO」だった。先生の返事は「4年生になってからね!」だった。

それから月日が経ち4年生になってからは迷うことなくサッカークラブに入れてもらった。
はじめて練習に参加して先輩たちに交じってやった「シュート練習」の一本目のボールインパクトの感触を今でもはっきり覚えている。もう興奮の毎日だった。無我夢中で毎日ボールを蹴った。

それでも飽き足らず試合に出たい一心で土、日も活動するスポーツ少年団に掛け持ちで入部した。
そこからが「勝負」という世界を身を持って体験することになる。

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当時の憧れだった石山先生(仮名)に指示を受ける

平日の放課後は公式試合はないどちらかといえば草サッカーの延長だった。しかしスポーツ少年団はまったく逆で常に他校との練習試合や公式戦での本番勝負だった。チームが強かったのなら自慢になるがまったく真逆の弱小チームで強豪を試合をすると6-0で負けて当たり前だった。

試合に負けて何回泣いたことか・・・・。

先生は厳しかった。当時は「精神論」の方が幅を利かせている時代。「ゆとり」や「スポーツ理論」なんてない。

とにかく走れ走れの全力サッカー。歩いたら最後、その後は「地獄」を見た。
まともにボールを蹴れない私たちに先生はいつも強烈に激を飛ばした。本当に怖かった。

朝は「6時」に毎日来て朝練をした。
午後3時に授業が終われば直ちにグラウンドへ!先生が来るまではとにかくリフティングをした。

下手なプレーをしたら容赦なく「ビンタ」をくらった。先生の機嫌の悪い時にはゴール前に立たされて先生の重いシュートを体で止めさせられた。

真夏の練習でも水は「一滴」も飲ませてもらえなかった。17時に一旦練習は終わるが日が落ちて真っ暗になるまでボールを蹴った。


普通はこれだけやられたら恨みつらみの世界になるのだが純粋な小学生にとって「逆らう」という選択肢がなかった。(それが後の中学生時代に火を噴くのだが、この件に関しては中学校時代の項で記載したいと思う)

でも・・・・

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とにかくサッカーが好きだった。当時ファミコンが流行っていたがサッカーの方をとった。

そんな私に父は初めてシューズとボールをプレゼントしてくれた。感激だった。当時はメキシコ大会で使用した「アステカ」ボールを持つことが一つのステータスだった。

いつも練習で蹴っているボールと違い蹴った時の感触が格段に違った。小学生の私にとっては「宝物」だった。
練習が終わったら必ず磨き寝るときはベットまで持っていき「抱いて寝た」。

朝起きれば「おはよう!今日もよろしく!」とボールに向かってあいさつをした。
子供ながらに純粋だったと思う・・・。

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いつも抱いて寝ていた「1986年メキシコ大会 AZTECA(アステカ)」

サッカー仲間もたくさんできた。この時に出会った仲間とは不思議なもので今でも交流がある。
一緒にいい汗をかいた仲間というのはいいものだ。この時の仲間がベースになり「楽しい中学校時代」を過ごさせていただくことができた(この件に関しても中学校の項で記述したいと思うので乞うご期待!)

先生には本当にいろんなことを教えていただいた。つらい練習だったが小学生ながらによく耐えたと思う。
石山先生(仮名)はこれからも名前が出てくるので憶えておいていただければと思う。

それでは少し長くなってしまったが次項に繋ごうと思う。ほんじゃね!



2010.10.07 Thu l 私の履歴書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
ここで少し10年前に亡くなった父の話をさせていただければと思う。
私の父は能登の宇出津出身で金物屋の次男として生まれた。

学生の時には柔道をやっていて背は高い方ではなかったががっしりとした体形だった。
重度のヘビースモーカーかつ大のパチンコ好き!

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今こうやって私がたばこを吸わないのは小さなころから父のたばこの煙が好きではなかったからだ。
友人がどれだけ吸おうが、好きな女の子が「たばこを吸う人ってかっこいい♡」と言おうが絶対吸わなかった。
「あんなもん臭いし金は掛かるし、体には良くないし、ろくなもんじゃない!」と思ってた。
そういう意味では「反面教師」になってもらって大変感謝している。

中学の時も皆たばこを吸っていたが、私は「そんな金あるんならヤングマガジン買うわ!」と言って意地を張りながら「ビーバップ・ハイスクール」を読んでいたのを思い出す・・。

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そんな父も子供思いのところは十分すぎるくらいあった。ちょうど幼稚園も年長くらいからだろうか?さかんに山や海に連れて行ってくれた。父自身もアウトドア好きでキャンプや白山登山等、幼少期の私にいろんな経験をさせてくれた。

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特に毎年お盆に行う能登・赤崎でのキャンプは一年に一回いとこ達が集ってあばれまくりの大変刺激的なイベントだった。
BBQやテントでの就寝、素潜りでのうに、サザエ取り等、いろんな経験をした。
この時の楽しかった思い出が頭から離れないのだろう・・なぜか能登に行くと今でも興奮する・・・。

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そうだ私は「能登フェチ」なのだ!

→次回第四回は「SOCCERと恩師I先生との出会い」
2010.10.01 Fri l 私の履歴書 l コメント (2) トラックバック (0) l top
「おぎゃー」とこの世に生を受けてから実際ものごころつくまでというのはもちろんなにも憶えていない。
写真を見ていてちょうどこの頃くらいからかすかな記憶が蘇る・・・。

このころ憶えているのは家で笛を吹きながら踊っていたときにずっこけ笛がのどに刺さり大流血したこと。私のいたいけな喉にあの「たて笛」が「さくっ」と突き刺さったことは約30年経っても鮮明に憶えている。
30秒くらい痛くて声が出なかった。


当時とにかく(金沢弁で言うと)けとつく(落ち着きのない)子供だったらしい。
カメラを向けられればまともな顔をしたことがないし(実際この頃の写真を見ると変な顔ばっかりしている)

遊んできます!と家を飛び出していったかと思うと裏の塀で鉄棒のように一回転をしそのまま顔ごと塀に激突!
何針か鼻の下を縫ったことも今となってはいい思い出だ。

そういえば地味にコップを口に当て吸いまくって口の周りが内出血!漫画に出てくる泥棒のようになって親戚から大爆笑されたことも思い出す。

これはオフレコだが汚い手でなんでも食べてたからだろうか?ギョウチュウになったこともあったっけ?

まあそこらにいるただのガキと変わらない幼稚園時代だったと思う。

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ギョウチュウ時代の筆者(今は持ってないよ♡)

ちょうどこのくらいからだろうか?父がアウトドアに連れ出し始めてくれたのは・・・・・。

次回「父との思い出(幼少編)」乞うご期待!
2010.09.27 Mon l 私の履歴書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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1975年10月11日、わたしは石川県の金沢でこの世に生を受けた。

母に聞くととにかく「顔」と「き○たま」が大きい赤ちゃんだったらしい。
(「き○たま」はどうかわからないが「顔」は今でも大きい。誰か今度「き○たま」の方を比べて下さい・・・)

父は初めての長男誕生に祖母と手を取り合って誕生を喜んだとのこと。
思えば年上のいとこは皆女性ばかりなので当時としては一族に初めての男児が誕生したとのことで喜びも大きかったことと思う。

父は能登宇出津出身で金沢に住んでいた母とは当時「お見合い」で知り合い結婚した。
父は結婚する前は大阪で郵便局員をやってたとのこと。そういえば「お好み焼をおかずにご飯を食べる」文化が家に根付いているのはわからないでもない・・・・。

この当時、父は石川県庁で働く公務員。母は専業主婦。
そしてこの長男に時の内閣総理大臣「中曽根康弘」から名をいただき「康弘」と命名する。

いよいよ「康弘」の人生のスタートだ!
当時の私は生まれたばかりで「オギャー」しか言えずこの頃のことはまったく記憶にない・・・。


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「私のヌード写真」いや~~ん恥ずかしい・・・
2010.09.25 Sat l 私の履歴書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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